2017年10月22日

『コード・ブルー』外科研修医 救急コール

『コード・ブルー』外科研修医 救急コール
アトゥール・ガワンデ



読後の感想
進地くんにお勧めいただいた一冊。
ポッドキャストでもとりとめもなく話しています。
https://soundcloud.com/user-900049561/01403a

アメリカの研修医が、実際の現場での医師の感覚を書いた本。
不完全にしか与えられていない情報の中で、緊急の作業をしなければならない医師の葛藤が
とても分かりやすく、また切実に伝わってきました。

外科医については、自戒をこめたこんな格言がある。
「ときには間違いも犯す。しかし、決して迷うな」(P.026)。


やはり現役の医師だからか、裁判に関するこのあたりの記述はちょっと切なかったです。
しょうがないけどね、訴訟だから。

病院付きの弁護士は、医師たちにこんな警告をする。
「起こってしまった問題については、もちろん患者に説明しなければならないが、法廷に持ち込まれて不利な証拠として利用されることがないように、病院側の非を認めてはならない。患者に思いやりのある言葉をかけたいと思っても、『私たちが望んだようには物事がうまく運ばず、残念です』というくらいにとどめるべきだ」(P.072)。


希望が持てるなぁと思ったのは、このあたりのエピソード。

かつて1960年代は気管チューブを入れる機械のスイッチの場所が
メーカー別にばらばらであり、人為的なミスを引き起こしやすい環境に合った。
ある麻酔医が、スイッチの場所を共通化するという作業を行ったところ
1960年〜1980年の間は1件/1万〜2万件のミスの確率が
1990年には1件/20万件という確率にまでさげることに成功した事例です。



印象的なくだり
私たちは、医学が知識と処理という整然たる分野だと思っている。
しかし、実はそうではない。医学は不完全な科学だ。
刻々と変化する知識と不確かな情報に左右され、誤りから免れない人々が行う手作業であり、危険と隣り合わせのものである。
私たち医者が行う処置は科学に基づいているが、習慣や直感、ときには単純な推測もそこに介在している。
医者の知識と技能の間にある差は埋めがたい。
そして、その落差ゆえに、あらゆることが複雑になってしまうのである(P.016)。



常勤外科医たちは、病院にとって最も重要なのは、長年にわたって同じ一つのことを黙々とやり通すだけの誠意と勤勉さとひたむきさを備えた人物を見つけ出すことだと言っている。
(中略)
技術は教えることができるが、ねばり強さは教えられない(P.031)。


私の息子はふつうではない問題を抱えていた。
あの専修医はもっと経験を積む必要があった。
だれよりも、研修医である私は、そのことを理解できるはずだった。
しかし、私は迷わずに決断を下した。「私の子ども」のことなのだ。
選択するときには、私はいつだって息子のために最良の選択をする。
そうしない人などいるはずがない。
だからこそ、未来の医学界はそれを当てにしてはいけないのである(P.046)。



人間的な思いやりとテクノロジーは、必ずしも両立しないわけではなく、互いに高め合うこともできる。
(中略)
ミスは常について回るが(機械といえども完璧ではないのだ)、ミスが減ったときに初めて信頼を勝ちとることができるのだ。
さらに、「システム」が技術面を受け持つようになると、医者は、患者とじっくり話すといった、はるか昔から重要とされていたことに時間を割けるようになる。
(中略)
機械は確かに決定を下せるが、癒しにはどうしても医者が必要なのだ(P.060)。


スキーで足を骨折しても―確かにひどい痛みではあるが―治ればまたスキーをする。
ところが、一度でもジンで悪酔いしたり牡蠣であたったりすると、二度とそれには手を出さなくなる。
アンソニー・バージェス原作の『時計じかけのオレンジ』の中で、政府当局は主人公アレックスの暴力性をコントロールするために、彼の暴力的衝動と吐き気と結び付けて解決を図るというシーンがあった。
ある時期、ドイツの町で同じようなことが行われた。
一八四三年に書かれた資料によると、町庁舎の外に置いた箱に非行少年を押し込んで、それを警察官がものすごいスピードで回転させた。
そして少年たちは野次馬たちに見るに堪えない見せ物を提供したという(P.156)。
posted by 福田茂孝 at 16:20| Comment(0) | 本のお話 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする